印刷の時代、表示の時代

 「父、桐島が見つかったって知ってるか?」
 
 長男と次男が時間差で、私に言ってきました(拙宅では子どもたちは「お父さん/お母さん/パパ/ママ」ではなく「父/母」と呼びます。ふざけてそう呼び始めたのが、いつの間にか定着したのです)。
 
 半世紀近く逃亡を続けていた桐島聡容疑者が自ら警察に名乗り出たという一級のニュースを、息子たちはX(Twitter)で知ったのでした。
 
 この一件は私に「印刷の力」を深く考えさせました。
 
 
 
 人類史を5000年とすると、グーテンベルクが活版印刷革命を起こすまでの4500年間ぐらいは、人類は大量印刷の技術を持ちませんでした。今のように世界中のあらゆる所に印刷物があるというのは、最大でも500年ぐらいの歴史です(日本だと150年ぐらい?)。
 
 長く続いた「印刷の時代」ですが、インターネット革命によって、媒体は紙から液晶へ、印刷から「表示の時代」へと移り変わりました。表示の最大の特徴は、印刷は「一度刷ってしまったら変更できない」のに対し、「いくらでも変更可能」であることです(動画は、静止画を高速で描き変えたもの)。今後、印刷媒体はますます衰えるでしょう。
 
 
 
 ですが、この「変更できない」というのが、印刷の持つ強みでもあるのではないか、と思い至ったのです。息子たちが桐島容疑者の顔と名前を知っていたのは、幼い頃から街角で指名手配ポスターを見るとはなしに見てきたからです。
 
 印刷物は、一度刷ってしまえば維持コストはかかりません。退色はありますが、雨さえ凌げれば存外「紙」は、特にポスターは物理的に強い。
 
 これに対し、デジタルサイネージ(街角で見かける広告用液晶ディスプレー)だったら、常に電気代はかかるし、寿命は長くないし、何十年も「容疑者だけ」を表示し続けることはないでしょう。
 
 
 
 大量印刷技術のない時代、聖書は、パピルスや動物の皮に手で書き写されました。神のことばですから、一字一句誤りがないよう、それは慎重に書いたそうです。
 
 聖書原本が消失して写本しか残っていなくても、そのお陰で私たちは、聖書そのものの記述を信用することができます。これまた「変更できない」こその強みだと思います。
 
 最近は私も軟弱になって、教会に持って行くのは重い紙の聖書ではなく、もっぱらタブレット版聖書ですが(検索も楽だし)、もし聖書が原典の時代から「デジタル版」だったら、ここまでの世界宗教にはなり得なかったでしょう。