卒・教会難民

 2017年9月末に、当時住んでいた愛媛を離れるまでは、所属教会がありました。関西転勤(=単身赴任)以降もいろいろな教会を訪ねたのですが、コロナ禍もあって結局どこの教会にも所属し切らず、「教会難民」となりました。
 
 単身赴任が解消された2021年春、「家族で通える教会」を探し始めました。10カ所ぐらい回ったでしょうか。私には良くても妻がNGだったり、子どもたちのカウンターパート世代がいなかったりで、教会に所属することを半ばあきらめていたのですが、自宅から車で30分ほどの教会に「ここなら何とかなるかもしれない」と、少しずつ通い始め、あるいはオンラインで礼拝に参加し、23年11月に正式転入しました。
 
 
 
 教会にもよりますが、今の教会は、誰が正会員かをきちんと登録します。それがなぜ必要なのか、どうして「フリー」のクリスチャンではいけないのか、聖書の中に根拠を探してみました。旧約聖書の民数記や、「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た」(ルカの福音書2章1節)という有名な記述から伝わるのは、統治側の事情です。
 
 現代教会が会員登録を求めるのは、おそらく教会運営上の理由でしょう。
 
 教会運営には監督制(聖職者からの上意下達)、長老制(聖職者+信徒代表の合議制)、会衆制(聖職者も信徒も全員が平等な主権者)の3類型があります。世俗の専制政治、貴族政治、民主政治との類比で考えると分かりやすいと思います。
 
 会衆制=民主制を採用する場合、「誰が意思決定に関与できる信徒なのか」が決定的に重要になりますから、会員登録は不可欠なのでしょう。
 
 
 
 監督制や長老制の場合、教会運営の責任は良くも悪くも限られたメンバーにかかります。しかし会衆制では、会員信徒一人一人に「教会を建て上げる」自覚と責任が求められます。フリーの身分で特定教会に居続けることがよくないのは、受益だけして相応の負担や責任を果たさないからです。
 
 一つの教会に所属するのは、私にとっては6年ぶりです。若い頃の勢いはなくなりましたが、夫婦共々、牧師や他の信徒と方向性、歩調を合わせながら、神に喜ばれる教会を建て上げていきたいと思います。