巨大ロボットと神

 「日本の巨大ロボット群像」展を見てきました。「超時空要塞マクロス」と「新世紀エヴァンゲリオン」の展示がほとんどないのは如何なものかと思いましたが(版権の問題か)、「世代」としては楽しいものでした。
 
 巨大ロボットアニメは、戦後日本の独自コンテンツだそうです。展示/図録には、外国人有識者のコメントで「巨大ロボットは武士の現代的化身」という趣旨の指摘がありました。確かにガンダムにせよ、コン・バトラーVにせよ、鎧武者を彷彿とさせるデザインですし、マジンガーZに至っては主人公の名前が「兜甲児」です(例外は「ファイブスター物語」で中世の騎士がモデル)。

現代の神話

 異論はないのですが、私は、巨大ロボットは「現代的な神」ではないのか、とも思いました。この場合の神はGod(聖書の神)ではなくgodです。日本の巨大ロボットは鉄人28号を嚆矢とするのですが、マジンガーZ、鋼鉄ジーグなど、当初は唯一無二のロボットが主人公で「一神教的」でした。3機が合体するゲッターロボで「三位一体的」になり、機動戦士ガンダムでロボットが量産兵器となって以降、完全に八百万の神というか「多神教的」になります。
 
 巨大ロボットアニメは、男の子の「強いものへの憧れ」をただ投影したものでなく、オリュンポスの神々、記紀の神々、エジプトの神々(ジャイアントロボなんてツタンカーメン)に通じる、科学の衣をまとった現代的英雄神話である、そこにはあらゆる怪力乱神を飲み込んでエンターテインメントにしてしまう日本のダイナミズムとクリエイティビティ、民族の集合的無意識が発露されている、というのが私の仮説です。
 
 「戦後日本にキリスト教が広まらなかった理由」については、さまざまな立場からさまざまな意見が出されていますが、ヒロイズムに満ちた巨大ロボットgods(と特撮ウルトラgods)が、Godが本来占めるはずの場所を奪ってきたから、というアイデアはどうでしょう。そうだとしたら「トンデラハウスの大冒険」じゃ対抗できませんね。
 
 
 
 余談:会場では、1990年代のアニメ映像(特に合体シーン)がいくつか流れていました。アニメが手描きだった最後の時代ですが(「トイ・ストーリー」が95年)、ほんの数秒のカットのために何枚のセル画を描いたのだろうと思わせる情報量とそこに込められたアニメーターたちの熱量、合体をリアルに感じさせる表現力に、心底感心しました。

後日談

 考察が止まらず、「ロボット」なる語を世に送り出したカレル・チャペックの戯曲「R.U.R.」を読みました。100年前に書かれたとは思えないほどの先見性でした。
 
 さらに日本文学者の最高峰・手塚治虫(世界最高峰はシェイクスピア)の「アトム今昔物語」を読みました。「葛藤するロボット」「ロボットの人権」「人間とロボットとの結婚」などのテーマは本稿執筆時の2024年よりずっと先を見通したものです。ベトナム戦争に人種差別に「風と共に去りぬ」まで織り込むなどアイデア満載で(R.U.R.ならぬU.R.U.社も登場する)、とても1967年の連載、子供向け作品とは思えませんでした。
 
 手塚治虫は「漫画の神様」と言われますが、確かにgod of MANGAなら妥当です。スピルバーグ監督作「A.I.」で、少年ロボットがサーカスに売り渡されるエピソードがありますが、あれは手塚、アトムへのオマージュだったんですね。
 
 同時期に並行して読んだ及川智洋「外岡秀俊という新聞記者がいた」でも、「なるほど」と思うくだりがありました。キリスト教、ユダヤ教社会では、高度な人工知能を持ったヒューマノイド型ロボットを作ることがタブーとされている面があるそうです。その理由は、旧約聖書「創世記」1章26節に、神が人を「ご自身に似せた姿に」創造した、とあるから=「人間の形は神しか造れない」と考えられているから、だそうです(P183~184)。
 
 確かに、ハリウッド映画ってあれだけ母数があるのに、高度な人工知能を持ったヒューマノイド型ロボットが主役の映画って、ターミネーターとブレードランナーしか思いつきません(トランスフォーマーはもともと日本の玩具が米国に輸出されたもの)。
 
 日本でアトムや巨大ロボット群像が生まれ得たのは、日本人が宗教的に融通無碍だからでしょう。アニメに伏流する「民族の集合的無意識」も、そういう意味です。日本人は、融通無碍を失いたくないからキリスト教を受け入れて来なかったのでしょう(キリスト教は絶対唯一なる神を崇める宗教ですから、融通無碍さを許しません)。私のように「融通無碍さは文化(=信仰の対象ではない)」と割り切れる人間は、両者を共存させられるのですが。