ハーベスト・タイムのメッセージステーションで公開されている、神戸聖書フォーラム代表の金森大悟長老(※長老は役職であり、ご本人はお年寄りではありません)のメッセージ「自由、希望、誇り~御言葉で変えられたもの」の中で、「分岐点」について触れられていました。
聴き終わった後「はて、私の分岐点はいつ/どこだっただろう」としばし考え、過去のある出来事に行き当たりました。
私は1995年10月に京都の教会で洗礼を受け、その半年後には入社して縁もゆかりもない宮崎で社会人生活を始めました。宮崎でも教会には通ったものの、仕事と新しい生活に追われたため、教会からは次第に足が遠のきました。
土曜になると「明日こそは礼拝に行こう」と決意するのですが、目が覚めると「あらら、もう礼拝終わってるよ」ということが何度もありました。心配した教会の方が電話をくれたりもするのですが、約束を反故にしたこと数知れず。価値観、行動等は世の中の人と全く変わらない。自分のことは、名ばかりクリスチャンだと思っていました。
きっかけは忘れたのですが、珍しく礼拝に出た時、驚くべきことがありました。若い信徒2人が前に立って、涙ながらに告白するのです。要は、結婚前に関係を持って、子どもができちゃった、と。神の前に心から悔い改めて、これからは信仰生活をやり直したい、と。
えええ? 結婚前に関係を持つなんて普通じゃないですか(私も人の事言えないし)! できちゃったなんて昨今、珍しくもないじゃないですか? 会堂でそんなことを考えていたのは、おそらく私一人だったでしょう。
一方で、2人が本当に悔い改めていること、私以外の信徒が2人と共に悲しんでいること、2人を応援していること等々が、無言のうちに伝わって来ました。「やり直したい」と語る2人と、洗礼から随分時間が経っているのに一向に成長していない自分が重なって「オレもやり直さなくちゃなあ」と、自然と思えたのです。
思えばそれが分岐点でした。
自らの恥を曝して神と人の前に立ってくれた2人、クリスチャンの価値感と基準を身をもって示してくれた2人には、本当に感謝しています。
今、どうしてるんだろうなあ。風のうわさでは、海外で暮らしてるということですが。いつか会う日が来たら「あなたがたのお陰で少しはマシなクリスチャンになることができました」とお礼を言いたいものです。