電車を降りた瞬間、目がくぎ付けになりました。頭には阪神タイガースのチームキャップ。その右側にはマスコットキャラクターが描かれたバッジが二つ。背中にタイガースのロゴが大きく描かれたジャンパー。肩にはTigersと書かれたバッグ。
おじさんが発しているメッセージは明快でした。
「オレはトラキチである。オレとタイガースは一心同体」
おじさんは、私にいろんなことを気づかせてくれました。
愛とは対象と一心同体になることです。タイガースの勝利は我が喜び。タイガースが敗れれば我は泣く。おじさんとタイガースは運命共同体。
おじさんにとって「六甲おろし」は、選手たちに捧げられる勝利と栄光の凱歌なのでしょう。
おじさんとタイガースの関係は、クリスチャンとキリストの関係にそのまま当てはまります。
クリスチャンとキリストは一心同体。何か喜ばしいことがあった時、クリスチャンはよく「神様、感謝します」と言います。クリスチャンにとってそれは、突然降ったり湧いたり、偶然にもたらされるものではないのです。苦しみに遭った時、クリスチャンはこう考えます。「イエスもまた、十字架でお苦しみになった。我はイエスの足跡をたどるのだ」と。
われわれが日々口ずさむ賛美歌は「神の栄光を讃えずにおられない」という気持ちにドライブされるものです。
おじさんは根っからのタイガースファンなんでしょうが、「ファン」について、仏文学者で思想家の内田樹さんが面白い定義を披露しています。
「ファンというのは『ファンを増やすことをその主務とする人』のことです。これは僕の個人的な定義です。でも、これ、なかなか使い勝手のよい定義だと思います。ファンとはファンを増やすことを主務とする人である。とすると、ファンの一番たいせつな仕事は、できるだけ多くの人に「これは宿命的な出会いだ」と思って頂けるように、そっとプレゼンテーションをすることだということになる。(『街場の芸術論』序文http://blog.tatsuru.com/2021/05/03_1416.html)
「そっと」というところがポイントです。「押しつけがましいのはダメ」だそうです。
私も、イエスの大ファンとして、本Webサイトを通して、皆さんに「そっと」キリスト教の素晴らしさをアピールできれば、と思います。