トンデモ・メッセージ

 げんなりして教会を後にしました。「二度とこの教会には行かない」と固く誓って。
 
 きっかけは、その日の礼拝メッセージでした。「日本とユダヤ」といったタイトルだったと記憶しています。
 
 曰く、旧約時代の幕屋(エルサレム神殿の原形のようなもの)と日本の神社の構造が同じである。曰く、ダビデの星(イスラエル国旗にも記されている六芒星)が伊勢神宮の灯篭にも刻まれている。曰く、祇園祭の山鉾のタペストリーに創世記の一場面「イサクの結婚」がある……。
 
 「まさか、アレを言うんじゃないだろうな」と思っていたら、案の定その牧師は言いました。「イスラエルの失われた10部族の一つがシルクロードを経て日本にやってきた。これらはユダヤ人が日本人の祖先となった証拠である」
 
 心の中で大きなため息をつきました。この牧師(日本人)は、海外の有名な神学校を出て、日本国内の教会で何年も牧師をされていた方です。そういうキャリアの方が、オカルトマニアと変わらない、聖書ではなく雑誌「ムー」にでも載っていそうなことを、公の礼拝で言うとは。
 
 「あんた、聖書読んでへんやろ!」と言いたかったですが、やめました。
 
 
 
 「ユダヤ人が日本人の祖先である」という奇説は、「日ユ(または日猶)同祖論」と言います。
 
 日ユ同祖論については、内田樹「私家版・ユダヤ文化論」で成立の経緯が詳しく述べられていますので割愛します(とても良い本です)。つまるところ、一笑に付すようなトンデモ論です。
 
 私が問題にしたいのは、それを聖書の専門家であるはずの牧師が真顔で語ったことです。
 
 そもそもユダヤ人からすると、彼ら以外の民族はすべて「異邦人」です。異邦人は律法(ユダヤ人が神から与えられた掟のようなもの)を守らないのでユダヤ人にとっては「汚れた民」で、ゆえにユダヤ人が異邦人と交流することはタブーでした。
 
 新約聖書の「使徒たちの働き」10~11章に、ユダヤ人のペテロが神の導きで異邦人のコルネリウスというローマ軍の百人隊長を訪ねる場面があるのですが、異邦人と食事を共にしたことで、ペテロは同胞から責められます。それは、そういう背景があるからです。むろん、職業牧師なら常識の話です。
 
 聖書時代のユダヤ人にとって「世界」とは地中海世界=ローマ帝国で、それ以外は人外魔境です。言葉が通じないんですから。彼らの当時の公用語はアラム語ですが、アラム語が通じたのはイラク(バビロン)まで。シルクロード経由で日本まで旅するって、イラン(パルティア、ペルシャ)も中国(後漢)も言葉が全く通じないのに、どうやって安全を確保するんでしょう。
 
 百歩譲って日本までたどり着いたとします。でも、考えてください。ユダヤ人って、世界のどの国でも固まって住むでしょう? 異邦人から迫害を受けないようにするというのもありますし、安息日にやってはいけないことが山のようにあるので、その対策の一つでシナゴーグ(会堂)から徒歩圏に住むというのもありますし、異邦人との接触の機会を減らすという面もあるでしょうが、ともかく、日本にそれなりの数の異民族がまとまって住んだら、1000年以上の記録文化がある日本ですから、何かしらの文書に残らない方が不思議です。
 
 町名でもいいですよね。日本各地に「高麗町」とか「唐人町」があるんですから「猶太(ユダヤ)町」などの地名が残ってもいいはずです。そもそも異邦人との交流をタブー視する民族が、どうやって日本の神社建築に影響を与えるんでしょう。
 
 
 
 残念ですが、教会もまた人間社会の産物という側面がある以上、すべての教会が推薦に値する素晴らしい教会で、牧師も同様という訳にはいきません。本サイトは、キリスト教に関心のある方と教会を橋渡しするメディアを目指していますので、一人でも多くの方に教会に足を運んでほしいと願っていますが、一方で頭の隅に、そのようなリアルな認識も置いておいてほしいのです。その方が幻滅しなくてすみますし、一つの教会が合わなくても別の教会を探せばいいという考えに至りやすいでしょうから。
 
 「お客様は神様です」なんて言葉もありましたが、信徒は神様ではありません。なので、信徒の側もどこかで折り合いをつけたり、片目を瞑ったりする必要もあります。この地上に理想の教会がないのと同様、理想の信徒もいないのですから。大切なのは、どこまでなら許容できるかというラインを持つことでしょう。
 
 私にとってはメッセージが礼拝のコアであり、そこで日ユ同祖論を持ち出すような人はアウトだった、というだけです。むしろ、この教会で関係が深まる前に判明して良かったと思います。
 
 ああ、私が「名誉ある教会難民」の身分を脱することができるのは、いつの日か。え、こんな面倒なやつ、願い下げだって?