八木重吉と詩のこころ

 詩人でクリスチャンの八木重吉(1898~1927年)の名を、同僚から教えてもらいました。
 
 まずは1冊と、図書館で今高義也著「八木重吉とキリスト教 詩心と『神学』のあいだ」を借りました。重吉(作品)を神学の観点から読み解いた入門書でした。
 
 同書から重吉の詩を二つ引用します。
 
 
 
 イエスを信じること
 
 それを一番の楽しみにしたい
 
 ひとりでに力が出てくる位たのしみたい
 
 
 
 イエスの名を呼ぶこと
 
 イエスの像を心に描くこと
 
 イエスについて人に述べること
 
 出来るかぎり人をゆるし人にやさしくし
 
 素直ほな瞳をもちつづけること
 

(いずれも「ノオトA」収録)

 
 
 
 とっても素直な詩ですよね。肩に力が入っていなくて。
 
 明治日本にキリスト教が本格的に伝えられて150年以上経過した訳ですが、日本にキリスト教は根付いていません。キリスト教の世界観が日本人の心情や情緒にフィットしなかった面はあると思います。
 
 「重吉は変換装置」というのが同書を読んでの実感です。重吉の中でキリスト教信仰が濾過され、昇華され、そして言葉が紡がれる。重吉の言葉には日本人の心に染み入る力があります。
 
 キリスト教会では旧約聖書の詩編を牧師と信徒が礼拝で交互に読み上げたり(そのような教会は少なくなりましたが……)、「使徒信条」や「主の祈り」を全員で唱和します(こちらは多くの教会で続けられています)。文語調の使徒信条も格調高くていいんですが、重吉の詩は、特に非信者の人には受け入れられ易い気がします。
 
 日本人向けの伝道ツールとして、どこかの教会で取り上げてもらえないかなあ。