自分のことを「若くないな」と実感したのはいつですか?
私の場合、35歳ごろでした。幼稚園の夏祭りの片づけをしていたら腰が痛くなって、翌日初めて整骨院に行きました。その後、今に至るまで整骨院との関係が切れたことはありません。「体と骨の調整に行く」という感じです。
教会は、ある意味で整骨院です。調整するのは霊と心です。週1回通ってリセットし、1週間働いてクタクタになったらまた〝ピットイン〟します。「霊と心のインフラ」であり「霊と心のライフライン」であります。
教会はすべての方を歓迎しているのですが、入る側、特にノンクリスチャンからすると、敷居が高いと思います。何せドアが閉まってますから。その点、お寺や神社はいいですよね。基本的にオープンスペースで、誰が、いつ入っても(基本的には)いいんですから。
少しでも心理的なハードルが下がればという願いのもと、教会なる場所がどんな場所か記してみたいと思います。なお、私は転勤の度に7~8カ所の教会を回りますし、出張すればその土地の教会に一期一会で行きますので(むろん海外旅行した時も)、以下は「平均化」された教会像だと思ってください。
アップロードとダウンロード
教会は「集団で礼拝をする場所」です。礼拝とは神様に対して「アップロードとダウンロード」をすることです。
アップロードは、賛美歌を歌うこと、献金を捧げることです。ダウンロードは、牧師が取り次ぐメッセージ(説教とも言われますが、怒られるものではありません)です。祈りには、アップロードとダウンロード両方の要素があります。
「福音派でもトランプ大統領支持ではない?」で紹介した通り、プロテスタントは現在、大きく三つのグループに分かれます。①自由主義神学派②福音派③聖霊派--です。私は②と③の教会にしか行ったことがないのですが、賛美歌は、大雑把に言うと、②の教会では18~20世紀に作られたクラシックな曲がおごそかに歌われ、③の教会ではドラムありでコンテンポラリーなワーシップソングが歌われることが多いです。
献金はお賽銭ではありません。願い事を叶えてもらうために収めるものでもありません。基本的に、非信徒が捧げる必要はありません。信徒が自分の信仰に従って、捧げたいだけ捧げるものです。多くは教会運営費に充てられますが、海外の貧困問題など、その教会が責務として負っている活動に充てられることもあります。
説教は、聖書の解説+適用です。牧師が、聖書のある部分に焦点を当て、そこで書かれていることを説明し、そこから現代に通じる普遍性を引き出します。聞く者はそれを日常生活の中で生かしていきます。説教には、その教会の神学的立ち居地がストレートに出ます。②の教会の方が、聖書に対する理解が深いことが多いですね。
礼拝は基本的に日曜の午前中に持たれることが多いです。短いところで1時間、長いところで2時間ぐらい。10時前後に始まり、昼ごろ終わり、そのまま一緒に食事という教会も少なくありません。こうした中で信徒同士の交わりや絆を深めていきます。
硬い表現をすれば、教会は一つの「中間共同体」です。中間共同体とは、個人と政府(地方政府を含む)の間にあり、かつ事業体ではない、「人々の集まり」です。私は豊かな社会とは、中間共同体が数多く存在し、活発に活動している社会のことだと考えています。
教会は、イエス・キリストに対する信仰を核とした賛美と、献金と、学びと、祈りと、交わりの共同体です。この共同体に加わり、時間を重ねることは、あなたの人生を、きっと豊かに、そして確かなものにしてくれるでしょう。