「カビ取りリトリート」のつづき。
その黙想会が興味深かった第1点は、ヨハネの福音書10章を例に①極めてゆっくり読む(読書)②引っかかるワードがあれば心で繰り返し味わう(黙想)③それが「~させてください」(歎願)という祈りになる--という指導を受けたことでした。
後で調べたところによると、聖ベネディクトによる「レクツィオ・ディビナ」と言うらしいです(英語で言えばDivine Luctureか)。ここが分かりやすくまとめてくれています。②③は内住の、聖霊なる神との共同作業だと思うのですが、その意味では霊的な読み方と言えるかもしれません。
私が長年親しんできた、文脈を重視し、注解書を使いつつ聖書の「正しい解釈」に取り組むプロテスタント福音派の、知的な読み方とは随分違う印象でした。
福音派の読み方と随分違うぞ
第2点は、イマジネーションの活用を勧められたことです。
ヨハネの福音書5章(ベテスダの池の癒し)をテキストに使ったのですが、池の情景、天気、病人たちの姿、イエスの服装、「そこにあなたがいたなら何と声をかけるか」などを、かなり細かい所まで想像するよう指導されました。
戸惑いましたが、挑戦してみました。イエスの服装はエル・グレコのThe Saviour of the Worldに従って、青と赤にしました。
福音派だったらまず「聖書にどう記述されているか」、次いで池の場所、広さ等を具体的に確認するでしょう。でも、ヨハネの福音書5章には、服装等についての記述は一切ありません。場所や広さの情報を得るにしても、ネット環境も、(私の大好きな)種々の辞典も何もありません。
聖書の場面にさまざまな想像を巡らせるのは、非難すべきことでしょうか? そんな事を言ってしまうと、西欧の古典絵画なんてすべて想像の産物です。イマジネーションもまた、神が人間に与えた賜物です。逸脱し過ぎない限り、想像力を働かせて聖書を読むのは悪くないというのが、率直な感想です。