次の配分先は「家族」です。家族が十分満足するだけの時間を配分しないと、家族は「問題行動」という形で不満を表明します。妻が不倫に、子供が不良行為に走ったりする訳です。
「『本当の愛』をどう伝えるか 親と子のコミュニケーション学」(ロス・キャンベル)という本に、「情緒タンク」という概念が紹介されています。要約すると、子どもの頭の上には(実は妻の上にも)見えない情緒タンクがついており、ここに愛情を注ぎ続けるのを怠ると問題行動という形で表れる、という訳です。家族のための時間を確保するとは情緒タンクに愛を注ぐということに他なりません。
夫の場合、優先してタンクを満たすべきは、子供より妻だと考えています。まず夫婦ががっちりタッグを組むことが、安定した子育てに欠かせないからです。
妻との関係で認識しておいた方がいいと思うのは、妻が「弱い生き物である」ということだと私は考えています。
私が結婚したのは2000年の10月でした。当時、私27歳、妻25歳。妻が子どもの頃から通い、私が洗礼を受けた教会で挙式しました。結婚するのはもっと先だと思っていたので全然貯金がなく、かなり焦りましたが。
最初のころは、妻というか、女性という生き物に対する理解が全然ありませんでしたし、「自分が考えていることの方が正しい」=「妻は自分の考えに合わせるべきだ」と考えていましたから、新婚の賞味期限が切れると、けんかが絶えなくなりました。
子どもが生まれてからは、子どもに手がかかりますし、初めての子育てですし、お互いの実家は遠くて頼りにできなかったし、私は仕事大好き人間だったので(笑)、妻は私に「やつ当たりする」という表現で自分の苦しみや不満を訴えました。
当時はそこに込められた「メタ・メッセージ」をデコードする能力がなかったので、「妻はどうしてこんなに(比喩的な意味での)ウニやクリ、砥部焼の皿ばかり私に投げるのだろう」と不思議でなりませんでした。
そんな私たち夫婦を救ったのは、ペテロさんと妻の母(私の義母)でした。
ある時、私の運転で、私と義母が日曜礼拝に行きました。妻と長女は体調不良か何かで休んだと記憶しています。道中、妻の「ウニ・クリ攻撃」への不満を愚痴り、自分の正当性を主張した私に、義母は言いました。「長い目で見たってなあ」。決して責めるような口調ではなかったですが、その分、私の心の深い所まで届きました。
「そうや、今はこんな状態かもしれんが、長い目で見んといかんのや」
それからは「ウニ・クリ・砥部焼攻撃」の嵐を受けても、「長い目で、長い目で……」と心の中で唱え続け、決してそれを打ち返さないように努めました。
ペテロさんは、イエスの一番弟子です。と言っても、直情径行型、激情型で、考える前に行動することが多く、挙句にイエスが十字架にかけられる直前、「お前はイエスの弟子だろう」と聞かれて3回も否定した臆病者です。そんな彼でしたが、イエスの復活後は聖霊によって変えられ、別人のように勇ましくイエスを宣べ伝える人になります。
聖書の中でペテロがこのように言っています。
「ええか、そこのダンナはん。妻っちゅうもんは、弱い存在なんや。それを批判するのやのうして、『この人はいのちの恵みをともに受け継ぐ者やから』と尊敬せなあかん」(新約聖書「ペテロの手紙第一」3章7節)
ペテロのお陰で救われた女性、夫婦はどれほどいるでしょうね。
妻から「ウニ・クリ・砥部焼攻撃」を受ける度、私は「ペテロはんがこない言っとる、ペテロはんがこない言っとる」と心の中で繰り返したものでした。
「神が与えたメンターたち」で紹介したデボア夫妻と「クリスチャンの結婚生活はどうあるべきか」について集中的に学んだ後は、私も考え方が随分変わりました。私が学んだことを要約すると、世のリーダー像は「黙って俺についてこい」ですが、クリスチャン的リーダー像は「人に仕える」ということでした。具体的には、皿を洗う、布団を干す、子どもの相手をして妻を一人にする、とにかく出来ることは何でもして妻の負担軽減に努める。妻の話を毎日1時間は聞く。それこそが愛を表す方法であり、仕える者の姿である、という訳です。
家内安泰のため私はつまらないプライドは捨てて、学んだことを忠実に実践しました。これまで、けんかになると、私は「自分の正しさ」を決して譲りませんでしたが、積極的に自分の非を認めて早く〝終戦・講和〟に持っていくようにしました。妻を変えるのは至難の業ですが、自分が変わるのはそれほどではありません。そうこうするうちに、ほとんどけんかにならなくなりました。今も妻はストレスがたまる度に「やつ当たりウニ・クリ攻撃」を仕掛けてきますが、先日などにこやかにすべての「ウニ・クリ弾」を受け、先方の発言には一切反論せず、挑発にも乗らず、最短時間でステージクリアしました。随分ベテランになったものです。
私見ですが、妻という生き物は「自分が愛されているかどうか」「夫が自分以外の女性に関心を持っているか」にとても敏感で、夫が妻だけを見ている限りは、機嫌よくやってくれるのではないかと思います。
なので他の女性との関係・距離感には、とても気を使ってきました。当たり前ですが、妻以外の女性とは未婚、既婚を問わず2人で何かをするというシチュエーションは絶対に作りませんでした。そのような必要が生じた場合は、第三者に加わってもらうか、妻に事前に理由を説明して許可をもらいました。妻には「携帯電話の通話履歴やパソコンに届いたメールは勝手に見て構わない」と伝えてあります。情報公開とは、請求されたからしぶしぶ黒塗りの情報を出すものではなく、積極的に情報を開示して自らの潔白を証明し、より強固な絆を築き上げるためにあるのです。
恋と愛は違うと考えています。恋は感情ですから、ジェットコースターのように上がったり下がったりします。愛は意思です。「この人を大切にし続ける」という。大切にするとは、自分の時間、心、財産を相手のために惜しみなく使うことです。
結婚式の時、キリスト教式だと牧師が「健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」と尋ねますよね。
これってまさに「外的環境やあなたの相手に対する感情に関係なく、あなたは相手に対して誠実であり続けるか?」と問うているのだと思います。
「隣の芝生は青い」と言いますが、違います。手入れを怠っていない庭が青いだけなのです。隣(別の女性)が魅力的に見えたら、夫はまず、自分の庭に毎日水を与えているか(妻に毎日愛を表現しているか)、雑草を抜いているか(2人の結婚生活を脅かす可能性のあるものを排除しているか)を疑った方がいいかもしれません。きちんと手入れをしていれば、妻はいつまでも魅力的で、結婚したころの初々しさは損なわれないはずです。
次に子どもとの関係で留意してきたことを書きます。