そのうちより今のうち

 

 出身中学は灘中の比較的近くにある学校でした。高校は村上春樹の通った神戸高校に似た名前の高校。大学は京都産業大学で、ダブルスクールで早稲田セミナーという就職予備校にも通ってました。入社後は、九州大学大学院の付属施設の観測所に足しげく出入りしていました。はい、これが、粉飾しまくった私の学歴です(笑)。

 

 こちらで書いた通り、学生時代の私の認識は、私の大学から全国紙に進んだ人はおらず、「関西の場合、関関同立以上の大学を出ていることが暗黙の了解」でした。
 
 だから今の会社に拾ってもらえた時、「これは自分の実力ではない。人智を超える力が働いたのだ」と信じることは難しくなく、クリスチャンになる決意をすることも比較的容易でした。
 
 それから四半世紀が流れました。
 
 先日、上司と話していた折、出身大学の話題になりました。「わが大学から全国紙に入った人は絶後ではないが空前ではあるはず」と私が言うと、「いや、〇〇という部署の××さんが同じ大学じゃなかったかな」と。
 
 ××さんとは面識がなかったのですが、思い切って声をかけてみたところ、学部は違いますが同じ大学の(おそらくは唯一の)先輩であると分かりました。
 
 ということは、「関関同立以上が暗黙の了解」との前提が崩れた訳で、「これは自分の実力ではない」も、ただの思い込みだったということになります。
 
 その結果、自分のクリスチャンとしての存在基盤も崩れ落ちたのでしょうか? 答えは「完全にノー」です。
 
 神は、それぞれの人に一番適した方法で、ご自身を啓示される方です。私自身の学歴や思い込みすら用いられます。
 
 人は、神のことを完全に理解したから、人格的にほぼ完成したからクリスチャンになる訳ではありません。逆です。わずかばかりの、それでも本質にかかわる神理解のまま、理性の向こう側へ、不完全な人格でダイビングするのです。その後、全人生をかけて、神への理解を深め、人格を完成させていきます。
 
 神はあなたにも、どのような形でかは分かりませんが、ご自身を啓示しておられます。あなたは、どこかで気づいているかもしれません。でも、「もう少し神様の事が分かってから」「自分はこんな人間だから」「立派な経歴じゃないから」と先送りしていませんか? そのうちより今のうち、ですよ。