新型コロナ考②

 前回は聖書に照らして新型コロナ禍の意味するところを述べてきました。今回はディスペンセーション神学を補助線として、さらなる深みに迫ってみたいと思います。
 
 耳慣れない言葉ですが、ディスペンセーション神学(ディスペンセーション主義とも言う)はキリスト教神学の一学派です。ディスペンセーション神学は神学界の中で冷遇されているというか異端視する人も多いですし、それを知らなくてもクリスチャン生活は務まりますが、聖書を解釈する上での補助線として大変優れていると私は考えています。
 
 私がディスペンセーション神学と出会うきっかけとなったのは、ヨハネの黙示録でした。手あたり次第に黙示録や終末論についての解説書を買い求め、さまざまな神学的立場の文献に目を通しましたが、最も無理なく頭に入ってきたのがディスペンセーションの立場で書かれたものでした。
 
 以下は私の理解です。
 
 創世記に始まり黙示録に終わる聖書には、一本の「見えない糸」が引かれています。この糸は、始点から終点に向かって、虹のように七つの色に変化します。表現を変えれば、「聖書にははっきりと色分けできる七つの時代区分がある」と言ってもいいでしょう。やや乱暴な言い方ですが、ディスペンセーション神学とは、そのような時代区分を重視する神学です。
 
 ディスペンセーション神学の考え方では、それぞれの時代には必ず「テスト」があります。残念なことに人間の側はそのテストに失敗し続け、失敗=罪がピークに達した時、裁きが下ると共に次の時代に移行します。
 
 前回の、アダムの例で言うと「食べてはいけない」とされた善悪の知識の実を、本当に食べないでいられるかどうかがテストでした。そしてアダムは失敗しました。裁きとして大地が呪われました(それだけじゃないんですけど、割愛します)。こうして次の時代が始まりました。
 
 ディスペンセーション神学の考え方では、現代は七つある時代区分のうちの6番目に当たります。「恵みの時代」と呼ばれます。この時代のテストは「人々がイエスをメシアとして受け入れるかどうか」です。
 
 
 
 前振りが長くなりましたが、ここからようやく新型コロナ禍の話です。
 
 残念なことに、多くの人はこのテストに失敗しています。人々はお金であったり、社会的成功であったり、それ以外の何でもいいのですが、神以外のものを追求しています。
 
 グローバリゼーションは、人々が世界規模でその欲望を追い求めたものです。新型コロナウイルスがこの流れに乗って広がったのは偶然でも皮肉でもなく必然です。
 
 人間が神に背を向け、神以外のものを神のように追い求めるというのは、神の目には罪と映ります。つまり人類は、罪のピークに向かってまっしぐらに走っています。私が前回、冒頭で「世の乱れは否応なしに深まる一方だとしか思えなかった」と書いたのも、そうした理由からです。
 
 頂点に達した時、どのような展開と裁きが起こり、次の、7番目の時代--再臨したイエスが統治する「御国の時代」と言われます--が到来するかは、こちらで書いた通りです。
 
 
 
 つらつらと書き連ねてきましたが、もうお分かりかと思います。新型コロナ禍に対する唯一の希望は、人々がイエスをメシアとして受け入れること以外にありません。
 
 以下、理由と、それによって得られるものを述べます。
 

●地上に満ちた罪と呪いを打ち砕き、失われたエデンを回復させるために父なる神が地上に送られたのが、イエスだから
 

●信仰の成熟度にも比例しますが、神とFace to Faceの関係になることにより、心に平安が得られる、または不安が減少するから
 

●人の力では抑えきれない疫病が一日も早く終息するよう、また疫病から守られるよう、神に祈り求めることができるから
 

●仮に職場や生活が破綻することがあっても、「神の最善」を信じることができるから
 

●仮に新型コロナ禍で命を失っても、既に「天国行きの切符」をもらえているから
 

●「御国の時代」では、死んだ者も含めてすべての信徒が「回復されたエデン」に集められるから

 
 
 
 
 「まことの神に立ち返れ」という神からのメッセージ、このサイトを訪れてくださった皆さんには聞こえていると信じます。再臨までの砂時計に砂が残っている間に、どうぞイエスを心に受け入れられますように。あなたのために、そして世界に一日も早く日常が戻るために、祈ります。
 
 追記:豪州在住の友人が教えてくれました。「Because He lives (Amen)」(米国のWest Coast Choir)、歌詞がいいですね。「Because He lives I can face tomorrow!」。皆さんの励みになりましたら。